[ Recollection Shouwa ]

 済ませておかないと、いけない用事が沢山あったが、ようやくだが手がつけれるように。母の書いた
日記を公開しようと考えた。ユウチュウブではないが、母の子供のころの大正時代を、けなげなに、
生きた証だとおもうふ。親が亡くなり遺稿として発見した日記だ。母は、「実父から」訓導を受けていて
文学が好きだったのである。いろいろとよく知っていた。幼少から、沢山の本を読んでいたようだ。
遺稿は、恩師に手伝ってもらい、校正をしてもらった。その恩師もすでにこの世にはいない。
                 編集者:長男サンデーィヨンチン (AT nagoya 2020 ) 

  

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   「夕空晴れて」 
    著者 永 井 ふ さ  



 






         ( 花 櫛 の 思 い 出 )

 



 泉のように湧き出てくる、いろいろの思い出の中に、四歳ころあろうか、母の鼻が高いのが、
幼い私にしっかりと手ごたえで、入って来たのが、麩 糊で梳き上げたあげた牛若髷であった。

 それは、長くて割に素直な毛髪でないと、結い上げる事のできない髪型であった。小さな花櫛を
さして大いに得意げだあったころから糸のほぐれる様に、様々な事が走馬灯のように脳裏を
かすめる。


 上がり框に姉と妹、弟と私の四人で、並んで腰かけていた大正十二年九月一日の、関東
大震災の時には、その頃としては珍しい、さつま芋の蒸したのを、箸に差してもらって四人が
バタバタと框の板をけりながら食べていた。

 昼頃、突然母が金切り声で、叫んだかと思ふと、子供たちを叱咤しながら表へ飛び出ていった。
姉が家の二階で、猫が走っているから、見てくると階段を上がりかけた時、母が(地震だで出な
あかん~~)と、妹の手を引きずりながら、梁の渡り廻らせてある表(おもて)へ四人を引き据えた。


 それから、母は大声で近所の人達と、ふらつく大地に体をはわせ乍ら、しゃべり続けていた。

 その頃、男の連中は、「舞台」と通常言っていた、村の芝居小屋で、「お日待ち」という部落中の
一年に一回ある、集会に重箱や、酒肴持参で、出払っていた日であったので、二十分もすると、
かく家の、お父っあん達が、ただならぬ青い顔で、皆ぞくぞくと帰って来はじめた。

 その頃、私は一年生であったが、根ほり葉ほり知りたがやで、出しゃばりであったので、
ぞくぞくとする程、嬉しかったのである・・・・。なにか事があると、日頃仕事するしか仕方がない
ような村に、新風が吹きわたってきた感じがしてくるのであった。


 地震が、如何に大変な事などという事は、どうでもよかったのである。その証拠に、その後の
事は、なんにも覚えていないのである。しかし、翌九月二日は、家中(いえぢゅう)が、ひっくり
返る事件が起きた。  

これは、この年になっても、まざまざと目に焼きついた映画スクリーンのように、はっきりとして
くるのである。九月二日は、地震の余韻が、あったであろうに、六歳の私には、それは眼中に
なかった。


 九月二日のお昼ご飯の直後、四人目を身籠っていた母が、母屋から少し離れた厠から
戻り乍ら、「英ちゃんが見えないが、えええか?」と言い出した。お守りの立場でいた姉が
自分の付近をぐるぐると見廻したが、目につくところには、弟の姿が見えないので、まだ家の
近くばかりで、通りには出る事もなく、五軒ほど離れた親類の家にいるだろうかと、見に
出かけたが、その内に、母の絶叫ともいえる声で、昼過ぎの仕事にとりかかっていた工場の
父達が、表へ飛び出してきた。 とても言葉にならぬ現実が起きたのでる。


 表でただわめいている母の傍へ走って行ったら、母が指さした池の中に、弟がうつぶせに
浮いていたのである。

 私の生まれた故郷の大半が、製陶業を皆、大なり小なり、経営していたので、大抵の
家には、モロ池と称する「池」が、それも、かなり深い池が、井戸のように、掘られていた。
みるみる内に、近所の親戚や、大人たちが集まってきた。一番初に、父が小さい弟の
背をまたぎ、人工呼吸として必死に繰り返し繰り返し行われた。

 足が動かなくなってしまい、周囲の音も様子も、まるで目にも耳にも入ってこなかった。 
弟の口から、さっき一緒に食べた御飯が、目を射るように、どっと出てきた時、初めて私は
大声で泣き出した。


 母は「あれに守りをさせておいたのに」と、姉にかみついているし、そのうちに誰かに
迎えられて医者が来て、あらゆる手当をしてもらっても、医者はただ、首を横に振って
いるばかり。母も「助けてやって~」と、繰り返し泣き叫んでいるばかりであった。


 なんとした事か、私は物心が付くよりあまり母が好きでないような、小さな子供のくせに、
奇妙に親をじっと見ていたみたいに、非常に嫌味な、ところのある女の子であったが、
さすがにこの時ばかりは、たとえ様もない一人の女の子で、本当の悲しみの親の姿に、
居てもたっても居られない思いがしたのを、脳裏から離れられないのである。

 私は、その知らせを、五、六丁離れている父の生家(父は十人くらいいた兄弟の一番
末っ子)へ、わけを話して、直ぐに来てもらえる様にと、使いを出されたのに、祖父、祖母、
叔父、叔母、男ばかりの、私より親ほども年の上の従弟たちと、一番若いのが、お嫁さんと
いう、大家族の家に来て「英ちゃんがしんだ 」と、どうしても よう言えなかった。


 いまでも、その時の心境にはガテンがいかないが、多くさんの男や、女の従兄弟たちが
いる中で、父の生家には、私が一番遊びに行っていた筈であった。白い壁がある蔵、
二階から屋根伝いで取れる巴旦杏(ハタンキョウ)、李桃、裏庭にある大きな登りよい柿の木。
少し離れた小川のほとりにある、おおきな胡桃の木。
蔵と母屋の間にある、大きな池にはたくさんの鯉。一年中、何かが咲き誇り屋敷ぐるりで、
お米やら野菜やらが年中とれていた。

 そして、やさしい顔をした祖父、父が一番尊敬していた祖父。子供心にも( こういう家で
生まれれば、よかったな )と、ひそかに思ったリしたもので在るが、大切な報告に来たよりも、
叔母の「 ご飯を食べにきたのか?お前の好きなラッキョをだしてやろうか 」などと、
いわれたりしたら、ゆったりした気分に忽ちなってしまった。 


 小一時間もすると、誰か大人がすっ飛んできて、私はおおいに叱られ、しょぼしょぼと家に
帰った。大きなお腹をかかえた母は、子供達が見たくないような、ずぶくれ、黒くて、
泣きはらした顔をしてモロ(工場)の二階の方へ避難していた。


 このモロの二階(昔から、モロと称しているが、どうもムロの方が、正しいような気がするが)は
私たち子供達には、いろいろの楽しい思い出の
ある場所であった。母がお嫁に来る時に
持ってきたと説明してくれた物で、子供たちの着物に付けるひこま紐(縫い上げした腰につ
ける紐)の、幅によって、飾り縫いの模様を種々の型で図案化した厚い白い板紙が何枚もあって、
母がどうやってこんな難しそうできれいな物を
こしらえたのか、ちょっと疑いながらも、非常な宝物のようなきがしていたのであった。また、
ビロード張りの箱で中は白い厚い台紙がはってあり、櫛、簪、金色と銀色の小さい扇子と、
女の子が胸躍らせるには十分な小物類が、どういうものか、この(モロ)の二階の八畳くらいの
部屋にあったのである。


 この二階の部屋で放心状態の母と姉、三歳になる妹らと、弔い準備でごった返している
声を聞いている時分には、きれいな男の子であった弟の亡くなった悲しみよりも、人が大勢
寄ってくる、ニギワイに、私は大変な嬉しさを感じていた。姉には割によくいじめられていた弟。

 二人の女の子の後に生まれた弟は、白い可愛い顔をした男の子のため、父母たちも大喜びの
うちに、なかなかのタンバ坊主に育っていった。一歳半位より、私はよく追っかけられたりした。
棒で叩かれたり始終逃げ回っていたから、これで追いかけられてりしなくて済むという、子供心に
安心感が働いていたことは確かであった。

 
 よくじつ、昼頃、親達の悲しみの中に、小さな棺桶が、裏山にある村の墓地に埋められた。
行列の前の方で、近所の子供、友人達と列に並べられて顔に白い紙の三角のを、かぶら
された時は、絵本か何かで見た物のかぶるものだと、だだを捏ねて、かぶらなくても良くなり、
おおいに得意だった位の葬儀の行列であった。


 それからは毎日、毎朝のようにお墓参りについていった。偶然であったろうけれど、弟は生きた
小動物を非常に可愛がっていたので、毎日いくと、墓にはキリギリスが、卒塔婆に捕まっていたり、
初七日のお念仏で親類中の大人達が寄ってきた時も、我が家は新家(しんや)のため、
仏壇がないので机の上にしつらえた、小さな位牌があり、私が羽根を取ろうとしていたのを、
弟が私の手に嚙みついて助けたキリギリスではないかと思わずにはいられない不思議さで、
その小さな位牌に止まっていた。いまでもあれは決して偶然ではなかったと子供じみた感じは変わらない。

 蛙の好きな弟でもあった。蛙を掴みそこない、モロ池に落ちて死んだのであろうか。その蛙も、
よく弟ののまえで見たのである。


 母は、近所の主婦が慰みの言葉の中に、死んだ子は帰らないから、早くあきらめてお腹の
赤ちゃんが男の子かもしれないから、しっかりとするようにとの意味の言葉をかけられると、
非常に腹を立てていた。指が十本あっても邪魔になるか! 一本一本が大切だと力んでいたのである。

六歳の私にも、なるほど、どの指も大切だ。そうだそうだと、たくさんの子供を生む母に
顔をしかめる自分もその時は納得が出来た。

九月一日 関東大震災、そして二日後には弟の水死、九月十九日に妹の誕生と大変な大正十二年は
暮れたのである。 



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