「牛若髷」             
   {花 櫛} 前編  作者:加藤ふさ ~ 編者:永井英雄  初稿:平成13年 

                      Blumen  EimKamm



No 1  (序文  1)

 泉のように、湧き出てくるいろいろの思い出の中で、四歳ころであったであろうか、母(松)の鼻が高いのが幼い私の脳裏にしっかりと手応えで入っていた、

現象がある。

 麸糊で梳きあげた牛若髷であった。それは長くて、割に素直な毛髪でないと、結い上げる事の出来ない髪型であった。

いつも私は小さな花櫛をさして歩き大いに得意げであった。その頃を思い出しながら、糸の解れるごとき様々な事が、走馬灯のように脳裏を掠める。


 軒先の上り框に、姉(美江)、妹(ひさ)、弟(ヒデオ)と私の四人で並んで腰掛けていた。大正十二年九月一日、関東大震災の時は、その頃としては珍しいサツマイモの

蒸したものを、箸に挿してもらって、四人がバタバタと、上り框の板を蹴りながら、横に並んで食べていた。

昼頃、突然に母が金切り声で叫んだかと思ふと、子供たちを叱咤しながら表へ一緒に飛び出して行った。姉が「家の二階で猫が走っているいから、見てくる~」と、

階段を上がりかけた時、母が「地震だで出なあかん~」と、妹や弟の手を引きずりながら、梁の渡り回らせてある、家の表側へ四人を引き据えた。それから、母は大声で

近所の人達と、ふらつく大地に体を這わせながら、喋り続けていた。「地震だにぃ~」と。


 その頃・男衆は、(舞台)と通常いっている芝居小屋で「お日待ち」という習慣があって、一年に一回ある集会に重箱に酒肴持参で、家から出払っていた日でもあった。

しかし、二十分ほどもしないうちに、各家のお父っあん達が、ただならぬ顔付きで、みなぞくぞくと帰って来始めた。その頃、私は1年生であった。根が知りたがりやで、

出しゃばりであったのであろう。この地震が有ったのが、ぞくぞくとするほどに、嬉しかったのである・・・。


 
 何か事があると、日頃、仕事(陶器製造)をするしか仕方がないような、この村に、この事柄(地震)は新しい風が吹き渡って来たような感じがした。

地震が、如何に大変なことなど、子供心に、どうでも良かったのである。その証拠に、その後の地震の事など、なにも覚えていないのである。

しかし、翌九月二日は、家中がひっくり返る大事件が起きたのである。

これは、この歳になっても、まざまざと目に焼き付いた映画スクリーンの様に、記憶がはっきりと蘇るのである。


 九月二日以降も、きっと余震があったであろうに、六歳の私には、それは眼中になかった。九月二日の晝ご飯の直後、四人目を身籠っていた母は、母屋からは、

少し離れた厠から、戻りながら「英ちゃんが見えないがええか?」と言い出した。お守り役の立場でいた姉が、家の周りをぐるぐると見回したが、目につくところには、

その弟は居なかった。いつも家の近くでばかり遊んでいたので、通りへは出る事がなかった。手分けして五軒先くらいの離れた親類の家まで、見に出かけたりして

いたのであった。その内に母の絶叫で、昼過ぎの仕事に取り掛かっていた父達や、職人さん達が工場からみんな飛び出してきており、言葉にならぬ悲壮な現実を

幼い私は見据えた。ただ、喚いている母のもとに、走っていくと、指さした池の中に、弟がうつむせになって浮いていたのである。


 私の生まれ故郷の大半は、製陶業を営み、大なり小なりと経営をしていた村であった。

それらの大抵の家々の前庭には、モロ池(仕事に使った濁り水の溜め池)と、称するものがあり、それもかなり深い池が掘られていた。


 みるみるうちに、近所の親戚や、知り合いの大人達が沢山集まりだした。一番初めに、(編集注:名前は盛重:モリジュウ)が、池から弟(息子)を拾い上げ、

弟の背をまたぎ、人工呼吸を必死に繰り返し繰り返し行った。私は気が動転してしまい、足腰が動かなくなり、周囲の音も様子もまるで目に入らなかったのである。

スット、弟の口から、さっき一緒に食べたご飯が真っ白に、口から目を射るように、どっと出てきた時、私は正気に戻って初めて大声で泣き出してしまった。


~続く。NO.2へ