花 櫛      < Blumen  EimKamm >



   NO 2  (序 文 2)



  母は、「あれに守りをさせて置いたのに~」と、一つ年上の姉に噛みついている。まもなく、誰かに迎えられた医者がきた。あらゆる手当をしてもらったが、弟の体は

戻らず、医者もただ首をふるばかり。母は、「助けてやって」と、繰り返し泣き叫んでいるばかりであった。

何をしたことか、私は物心がつくより、あまり母親が好きでは無かった。小さな子どものクセに、奇妙に親をじっとみている、みたいな非常に嫌味なところのある、女の子

であった。さすがに、この時ばかりは、例えようもない一人の女の子で、本当の悲しみの姿に、いてもたっても居られない思いがしたのを、この歳になっても、幾つになっても、
いつまでも、脳裏から離れられないでのである。私は、すぐさま、用事に出された。


 その知らせを持って、五、六丁は離れている父の生家(父は、八人居た兄弟の一番の末っ子)に、今起きた事柄を伝えて、直ぐにでも「来てもらえるように」と、言うための

お使いにだされたのであった。 祖母、叔父、叔母、男ばかりの、私よりも親ほども年上の従兄弟たち。一番若いのは、お嫁さんという大家族の家に来て、(英が死んだと

と、どうしてもよう言えなかった。私は今でも、その時の心境に合点がいかない。(動顛していたのだろうか)。たくさんの男や女の従兄弟たちが、いるなかで、父の生家(加

藤家の本家)へは、誰よりも私が一番よく遊びに行っていたはずであったのに。


 白い壁や、二階の屋根から伝って外にでて、取れる巴旦杏(ハタンキョウ)や、李桃(スモモ)。裏庭の大きな登り良い柿の木。すこし離れた小川の辺りにある大きな胡桃

の木。蔵と母屋の間にある大きな池。一年中、何かが咲きほこり、屋敷ぐるりでは、お米や野菜が年中とれていた。私はその家が大好きだった。

そして優しい顔をした祖父。父が一番尊敬していた祖父。子供心にも、(こういう家でうまれたら良かった)と、ひそかに思ったりしたものであるが、大切な報告をしにやって

来た事よりも、叔母の「ご飯を食べに来たのか」「おまえの好きなラッキョウを出してやろうか」と、言われたらゆったりした気分に、たちまちなってしまった。小一時間もする

と、誰か大人が飛んで来て、正気にもどり、たちまち大いに叱られてしまった。しょぼしょぼと、家に帰ったのである。


この一大事で、大きなお腹を抱えた母は、子供たちが見たくないような、づぶくれた黒く泣きはらした顔で、モロ(注:工場)の二階(小部屋)へ、避難してしまった。


 この頃の、モロの二階は(昔からモロと称しているが、どうもムロの方が正しいような気がする)、私達子供らには、いろいろと楽しい思い出のある場所で、あった。

母が、お嫁に来たときに持ってきたと説明してくれた、物で、子供たちの着物に付ける{ひこま紐}。幅によって飾り縫いの模様がしてあり、種々の型で図案化して、

厚い白い板紙が何枚も重ねてあって、母がどうやってこんな難しいそうで出来たきれいな物を拵えたのか、ちょっと疑いながらも、大切な宝物のような気がしていたモノが

あった。また、黒いビロード張りの箱では、中に白い厚い台紙があって櫛、簪、金色と銀色の小さな扇子など。女の子が胸躍らせるには、十分な小物類がどういうものか、

このモロの二階の狭い八畳くらいの、部屋の中にあったのである。


この部屋で放心状態の母と姉、三才になる妹らと、階下で弔い準備でごった返している声を聞きながら、きれいなお男の子であった弟が、亡くなった悲しみよりも、私は

人が大勢寄って来たニギワイに、大変な嬉しさを覚えたのであった。


私は、姉に割によくいじめられた。二人の女の子の後に生まれた弟は、白い可愛い顔をした男の子で、父母とも大喜びの内に育って、中々の横着坊主(タンバ)であった。

一歳半くらいより、私はよく追いかけられたり、棒で叩かれたり、始終逃げ回っていたから、これで(死んで)、追いかけられなくて済むという、安堵感が働いていたことは、

確かであった。翌日、昼頃、親達の悲しみの中に、小さな棺桶が裏山にある村の墓地に埋められた。行列の前の方では、近所の子供、友人達等と列に並べられて、

頭に白い紙の三角帽子をかぶらされた時は、絵本か何かで見た者のかぶるものだと、は大いにダダを捏ねて、かぶらなくても良くなって得意だった位であった。


 それから、毎日、毎朝のように母のお墓参りについて行った。

は、生きた小動物を非常に可愛がった。お墓に毎日行くと、偶然であったろうけれど、キリギリスが卒塔婆に掴まっていた。また、初七日のお念仏に親類中の

大人たちが寄って来た時も、(新家)のため、仏壇がなかったが、机の上に据えられた小さな位牌に、以前に私が羽根を取ろうとしたのを、弟が私の手に噛みついて、

助けたキリギリスではないかと、思わずにはいられない不思議さで、位牌に掴まっていた。

あれは決して偶然ではなかったと、子供じみた感じ方は、いまで変わらないものである。

蛙の好きな弟でもあった。きっと、蛙をつかみそこなって、モロ池に落ちて死んだと私は思う。その蛙もよく弟の墓でみたのであった。


 その後。母は近所の主婦が慰みの言葉のなかに、「死んだ子は帰らないから、はやく諦めて~」とか「お腹の赤ちゃんが男の子かもしれないから、しっかりするように」と、

いう意味の慰みの言葉を言われると、大変に腹を立てていた。その時、母は、指が十本あっても邪魔になるか!一本一本が大切だ!と力んでいた事を思い出す。

六歳の私にも、なるほど、どの指も大切だ。「そうだそうだ」と、たくさん子供を生む母に、顔をしかめる自分も、その時は納得が出来た。


九月一日関東大震災。九月二日に弟の水死。九月十九日は妹の誕生と、大変な大正十二年は、こうして暮れた。


父は、八人もある兄姉(ハラカラ)のうちからでも、親がどの子供にも全部、相当のことをして、嫁入りさせて、末っ子の父にも、家と工場も与えた。登り窯も生家から

分家としてもらって来ていた。私もある程度は、成長してから頭に時々かすめるのは、非常に大変なことであったろうなと、いう感じであった。自分の子供たちがそれぞれに

、成長した点で思うと、長男の立場であった、叔父さん一家の心境は、並大抵ではなかったと痛切に思われてくる。

小学校へ入る前か後か定かの覚えてはいないが、分家一家が、寄り集まって、田植えが盛大に行われていた頃である。広間の土間に長い机が置かれ、両側にずらりと

人が並び、賑やかな昼食の光景を思い出すのである。

 まもなく、本家の長男の結婚式があった。その同じ村で、別の字名のところから、小柄なお嫁さんが来た時の、立派な結婚式を思い出す。幼心にも、よその家の結婚式

なのに、心のはずむ嬉しさであった。私は、その廣い祖父の家のぐるりをくるくる廻って、喜んでいたのは、五、六歳の時であったと思う。  お客の膳の上に乗せてあった、

大きな伊勢海老が、長い触覚をピンと立てて、式の最中にのそりのそりと、部屋の真ん中まで這っていったので、お客はヤンヤの大喝采であった。これを見て、勝手元に

いた、お手伝いの人達も皆大喜びで、こんな目出度いことはないと、おおいにはやしたてていた。

大勢の親類が小さい村のあちこちに、全部居た(住んでいた)のであるから、外(ほか)の血族の家庭の子供達も、この結婚式たくさん来ていた筈であったであろうが、

どうも人間は(人によってはまちまちであろうが)、五、六歳の頃の時点では自分本位であって、あまり周囲のことは覚えていない様な気がする。

どこの家のどの子供たちが、ここの式に遊びに来ていたのか、はっきりと覚えていないのである。


No 3へ続く