花 櫛           Blumen  EimKamm

   NO3

 
 { こと姉さん } 

 
それでも、長ずるに従って、その頃の父(名前が盛重といった) の、生家の家運も冷え初めた。というより最低のところまで、来ていたと思われる。前にも書いた様に、

おせんしょなであったので、他の孫たちは近寄らなかった様におもわれるが、祖父の家へは、年がら年中、時刻(とき)もなく、寄り付いて居た。

 その家は、私からは年が一番近い従兄弟(注:貫さん)が居て、食事の時の箸の使い方が、違うと叔母(注:貫さんの実母)が、私と比較して「あれよりも大きいくせに、

はよ直さないかん・・ 」と、私を指さしながら、言ったりした。口の重い目の大きな、その従兄弟はギョロリとした目で私を睨むのであった。


この家に来た(五人ばかりの男子の従兄弟がいたが)、小柄なお嫁さんは、その頃の田舎としては、なんでも出来すぎるくらいの器用で、非常に賢い女性であったと

今でも思う。そこで私の父は、いつも「女の立派なのを見るなら、下(しも)のこと姉さん」を見よと、常に言っていたくらいである。


 村名=陶町猿爪(すえちょうましずめ)といふところは、四方とも山で、東西南北からどの方角からでも、長い長い坂を上り詰めた小さい盆地の中の

小さい平地に陶器をなりわいとしていた村であった。 その村に細く周りくねった一本の新道が通っていて、村の東から上(かみ)の方、下(しも)

の方という通称で称えていた。上(かみ)の方には、いつも近親結婚があるらしく、同じ様な名字の家が多かった。この下の「こと姉さん」の嫁入りしてきた父の生家には、

祖父母、叔父夫婦、男の兄弟が四人と、女一人という大家族であった。家運が傾きかけたところへ、こんなにもよく出来る人が、どうして嫁づいて来たかしらないが、

父の日頃の口癖にしていたのは、どんなに辛い難しい事ができたとしても、下の「こと姉さん」の事をおもえば、大抵の事は、のようなものだと、言っていたことである。



 父の実家の墓には、いつも真新しい草花が活けてあった。私が子供の頃からでも、娘時代になっていた時でも、また、私が嫁して時々帰郷をする時も、疎開してからの

十三年間、町の住人であった時にも、たまに母の墓へ参った時にも、花が活けてあった。今朝見えたのかと思うほど、何時も何時も目を見張る位、真新しい草花が

墓前にさしてあったのである。こんな事が出来るのは、何百人かの住人がいる、あの山の田舎ではまず、「こと姉さん」以外には絶対にないと私は思った。

 彼女は、裁縫などや、すべて何でも出来る人であった。つまみ細工、袋物作り、押絵細工、とあの頃の年代で、あの山の中の村で、お花も、お茶も免許のあった人は、

珍しい事と今でも確信している。私の知っている限りでは、あのような立派な主婦の事を知っている人は、誰もいないのである。誰もとうてい真似が出来ないし、人にも

語り尽くせないほど、立派な女性であったであろう。けれどその人をつぶさに知って居るだけで、は幸せであると今でも思っている。


{ 生 家 }

 分家をしてもらって父が来た頃には、工場も住居も仕事に必要な諸道具、材料一切を分けてもらって、母を連れて新家に来たという事だそうである。

母が「わしん達がこの家に来た時には、米びつにお米がいつもいっぱいで、陶土(仕事用)ももろにたくさん入ってところへ、来たもんだ」と言っていたものだ。

今現在、どの工場にも、超近代化の諸工具で陶器を製造しているのとは、雲泥の差もいいとこで、大正から、昭和に掛けての原始的な陶器製造工程を覚えて

いるのは、多分、私達の年代の者だけに、なるだろうと思ふのである。たしかにあの頃は、ベルトは竹で(へいだ)のであった。足で加速を付けて、

えもいわれぬ音をたてて、廻る竹ベルトが、廻っているなかに、飯茶碗が出来ていくのである。幅が二十五センチ位、縦が二メートル位の板の上に、生の陶器

を重い型ぐるみで、びっしりと並べて、天日で乾燥させるという事が、電力を使用する以前までずっと続いていたのである。三方とも窓のない、30糎位の厚い土

壁で作られた「モロ」のなかに、陶器用の原料の土が人の丈ほどまでいれてあった。当時の母の仕事といえば、朝の暗いうちに起きて、ご飯の火を焚き付け、

はだしで冬の日も夏の日も、(クチャクチャ)と、土を踏み崩していたのである。ご飯の火をみる(へっつい)の、かたわらの柱には、なめらかで、直径が八糎

くらいのが天井からぶらさがっていた。下に「ゴス茶碗」という厚い大きな鉢に陶器に塗られる「ユウヤク」の塊が置かれて、ごりごりと棒で掻き回すので

ある。手があまっていれば、いつでもこの棒につかまって廻すのが、親ばかりか子供たちも多分にもれず、いつもやらされてた。手伝っていたのである。

冬の氷の張った土の上にはだしで、いつも踏み崩している母の姿は、明り窓のない暗い「モロ」の中で目をこらさねば、見えないので、幼い私どもにも大変心

打つものであった。つまり、いつも母の身体の手足は、何かの仕事をたえず休まず働きずめに働かせていたのである。


弟が、モロ池で溺死した時は、何処にでもべったりと座っていた母が記憶に残っているくらいで、四人目の女の子を生んでからの母は働きずめに動いていた。

父が寝ているあいだに、母は早朝「くど=釜戸」に薪をくべながら、素足で土を踏みならし、味噌汁を作り、同じ様な要領で、まるで違うユウヤクの薬を解き、

朝七時頃からは、「モロ」で踏み砕いた土を手で、うどん作りの様な方式でこねていた。それを竹ベルトのロクロで、青磁色の小さなご飯茶碗や、湯呑又は、

菱形の向付け(むこうずけ)等を型に作り込み、一枚十キロ乃至二十キロの板を、一日に何十、何百と、表のハリの上に並べて乾燥させると、それを型から

ひとつひとつつ外し、空になった板の上に並べて天日で再び、よく乾し上げるのである。

小柄な体で、のべつ働きまわっていた。コマ鼠の如き母であった。そうして五つ位あるの登り窯にいっぱいつまるだけの 「生陶器」が出来上がると、人を頼ん

で、窯場の前にある平地でかま入れが始まるのである。生陶器を陶鞘(俗にエンゴロ)に入れ、何日も幾日もかかって、窯いっぱいに詰めてゆく。その時期から

焼き上がるまでの、「窯焼き」(注:陶器製造所)の工場乃至家全部を称して云う言葉の苦労は並大抵のものではない。


子供達もご多分にもれず、それはそれで、いつも親に協力せざるを得なかったという方が正しいかも知れなかった。


父の生家へ、ちょこちょことせんしょ(勝手)に、いつも遊びに行っても、そこの工場では男の連中が(父の在処は、叔父、従兄弟達、職人さん達)が多かったか

ら、中々楽しそうに見えたものであった。比較しても分家の我が家では、あまり働き手では無い父と、働きお松っあん、「大声お松っあん」で通っていた母が、

忙しい時に丈、頼み廻ってくる日雇いの男女で、大変な忙しは、一週間か十日位続くのであった。

窯入れの時なぞ、姉はお勝手と家の用。私は妹・弟達の守りであった。大体、どこの家の窯は皆、山の中腹にあった。陶器を作っている工場からかなり、

離れた山の一角に、二軒分か、多いのは四軒分の廣い窯を受けもっていた。

同じ速度で、窯入れして、火をいれなければならぬ関係で、どこの工場も、正に猫の手を借りたいような戦場の様な忙しさであった。

家中が、その折(窯焼き)には、ご飯もろくろく座って食した事が無かったと思う。朝、小高い山の処にある窯場の入口で、私は妹をおんぶして、豆粒の様に

見える校庭で生徒が走り遊んで居るのをみたら、地団駄をふんで、「早く学校へ行く」と、ごねたものであった。


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