花 櫛     Blumen  EimKamm

NO4~ < 学校>


 学校の、方からから用意の鐘がカンカンカと3つ鳴ってくると、私は自分で妹を下ろして、乳母車の中に入れ、上からムシロを掛けて、縄でぐるぐる巻き付け、妹が

乳母車の籠目に手を入れて揺さぶりながら、泣いているのを見ながら、一目散に家にあるカバンを持って、学校まで走ったことが、何回もあった。


 窯入れや、窯起こしと、いつもの人手がいる度に、母とか私達子供が、臨時の人夫集めに近所の各家庭(大体決まった人達だが)へ廻って頼みに歩いた。

どの家も、両親と子供らが、賑やかに食事なんかしているところに、ぶつかり 「ああ、自分もこういう家に生まれてこれば、一年中、忙しい忙しいと言われずに、

暮らせたな」と思ったものであった。

 
 さて、窯に火が入るともう、父母とも幾日も寝なかった。手のひらを立てた様な、細い道を上がった山の中腹の焼き口までは、大人でも薪も一挙に持って上がることなど、

場所も人手もなく不可能であった。釜口に薪を放り込んでいる父の足元から、常に手の届く限りのところには、往還まで馬車が、いっぱい積んでくる、割木や、

ナグリ(ほそい焚き木)等は、いつも全て母が、眠らずに担ぎあげる場所であった。


 幾日も、眠らずに、「一の窯」から「五の窯」まで焼き上げると、両親は、頬がげっそりとくぼむのであった。山の下の家にいる子供たちもまた、大変であった。

姉が、朝御飯を炊く、味噌汁を作る。そして私は妹のおしめ洗いであった。細長い「なぐり」という薪を一本、束の中から」引き抜いて、」私の身体の半分以上もある、

おおきなブリキのバケツ一杯に、たまったおしめを、川まで洗いに行くのが、六、七歳位の姿が、私の仕事であった。


 真冬には、その「なぐり」で流れる淵の方の、氷をパンパンと割って流し、川のよどみの所へしゃがみ込んで、おしっこや、ウンチを、どうにかこうにか洗って流し、

私の小さい背に合わせて作った、軒下の干竿に、おしめを干したものであった。ご飯を背負いあげ、腕に半じょうかん(ご飯蒸し器)を通し、夜通し焚口で薪を、

放りこんで居る父と母の許へ、山間(やまあい)の石ころだの、木の根っこだののある、坂道を運んだりしたことも、度々あった。

ある寒い日、夜食事を届ける時などに、大雨が降っている事があった。今で云う台風であったろうと思うが、傘が風で巻き上がって、唯でさえ、難儀な山道が、

すごい流れの川の様に、膝まで来る水の中を、ようやく這い上がって焚口まで行ったこともあった。

また、親が仕事(窯焼き)でいなくて、子供ばかりで家でごろごろしていた頃、妹がおしめから出てきたウンチを、口に入れてもぐもぐした時は、姉が素頓狂な声で、

大騒ぎした事があった。その時に、母が山から下りてきてくれたか定かでなく覚えていない。


 四人目の女の子までは、工場の隣り合った家で生まれたが、四歳で亡くなった弟の生まれ変わりだと、大歓迎の中に五人目の子(弟)が生まれたのは、

家から斜め前の「都亭」と呼ばれた、小料理屋を買って家移りした後であった。


  家の工場などで、働いていた職人さんらが、「都亭」の働いていた女性の事を、姫が姫がと、よく言っていた事を思い出す。田舎の小料理屋の女達の事を

「姫」だとか、「かんつ」とか、言ったりしたようだ。大人たちの話しでは、燗徳利を取り運ぶから、「かんつ」だと言うことであった。近所の小母さんや、母達は、

あまり良い顔をしていなかったりしたが、子供の私達は非常に興味があった。私が今、思うには、あまり悪い姫たちは居なかったような気がした。


その「都亭」という家は、部屋数が多くさんあったが、子供の私達がみても、木っ端で作ってあるような感じの安普請の家であったように思えた。

そこは二階が四間、離れに縁側があって、八畳二間に上便所がついていて、一応、料理屋の体裁を保っていたのである。


 家の前の道路から、家に入ったところが四枚の網戸を立てた、割に大きな料理場で、畳一枚分位ある、コンクリートで作った冷蔵庫と四畳半くらいのお帳場で、

六畳の姫達の部屋とあって、なにしろ広かった。今までの二間半くらいの、家から移った私や姉は大喜びであった。その家は、看板の字が書いたままになっていて、

年に、二、三度は、旅人らしい人が来て「食べさせて下さい」と、入ってきたりした事があったものです。


 この古い「料亭」の家屋に移って来た頃は、時代の波は人間社会にだんだん都合が良くなりだしていて、どの家庭にも工場にも、ふんだんに電力が入って来た。

元の家の頃、電気が家庭についた時には、母が歓喜して近所の人達と、手で触っても熱くないとか口で吹いても、消えない事、ホヤを掃除しなくても良いとか、

大騒ぎしたそうだであった。大正末の年の頃であったろうか。


この家屋(都亭の跡)へ来た頃は、社会の発達が急速度に上っていった様に思われる。


この様に、モロに接続していた前の家まで、出来事は幾年にもなって、どの事柄も鮮やかに懐かしく覚えているのは、私には雑念の入って来ない年齢であったであろうか。



< 父親 >

 現役で、チャキチャキの兵隊であった父は、姿が良くて歌舞伎顔をした、いい男前でもあった。 我が父ながら、他家のお父っあん達に競べて、いささか得意に出来る

見栄えした人で、その頃のは大変に好きであった。

 何でも、一応は出来て、百メートル位あった工場前の干し場で、隅から隅まで「ハッ」と、大声を上げたかと思うと、

たちどころに逆立ちになり、そのまま、まっすぐに往来をしたり、高い「ハリ」の上でも、ひっくり返りのまま、素手で伝わったりした。また、障害超えだといって塀を走り

上がり下がりして、妙技の数々をしてみせ、皆を楽しませ、子供からは「偉い人」といっぺんに尊敬してしまえる様な人だった。


 自分では連隊一の尺八の名手だとかで、月の出ている陽気の良い頃は、表の「ハリ」の上に腰を掛けて、朗々と吹き流す尺八を聞いて、幼かった私は涙を父と

一緒に流したことも覚えている。ただ今のように、明るい電力の無い時代、無心で吹き鳴らしていたのか、父は過ぎし若き自分に涙していたのかも、分からなっkた。

後々、思い出されるにおであった。 


 父は連隊では銃剣術も達人だったと自慢をし、たくさんの写真があった。優勝して賞をかかえたものもあった。お習字も優秀で、終いには連隊長付きの公私方の、

書紀になって、いろいろな面で大徳をしたと、話しくれたものであった。なんでも、「書紀」を募る時の、課題が、菅原道真の「東風吹かば・・・」という和歌を楷書で、

行書で、草書でと三通りに書き、それに父が一等でパスをしたそうだ。 父は十三歳から、「当用日記」を終戦まで、一貫して書き記した人であった。

私の生まれた大正七年の父の日記帳には、大書きして、「大不景気号」としてあった。


私は、長じるに従って、好き嫌いの部分が沢山でてきたが、どちらを取るかといえば、矢張り、母より父の方が、数倍好きであった。



 {{ 編者記・若い時の母の写真を見てみると、女子青年団やらもろもろの集合写真の自分の顔のみペンで、書き潰した跡があって、なぜか、最初の頃はよく
                    分からなかった。 若者特有の厭世的現象が起きていたようだ。反抗の時期だったようだと思う !}}



 「都亭」の跡へ、越してきた頃は、小学四年生の頃であったと思う。 大変心楽しかった御大典(昭和天皇の即位)の事や、隣の家のせまい表側に近所の

お小母さんたちや、子供たちと並んでいる中で、母にこづかれて、ハーモニカを習って、とうとう吹けるようになったのも、この頃。糸の機締めの結び方の方法を叱られ、

叱られて覚えたのも、この小さい縁側であった。何回も頭を殴られるのを、近所のばさんたちが、止めてくれたのを、知りながら絶対に何でもおぼえちゃうと、

(いまに見ておれ)。腹の中で母に抵抗しながら、敵意さえ抱いて、いろいろと吸収していった。


 姉の次に、また女かと大人たちがしかめつらした、いわゆる私は「いらない子」の部類だった。上から三人目の弟(かわいい男の子)は、非業な水死。

私は全く目障りだった様なとろが、あったらしい。


姉は、両親の初の子で、名前(美江)も割に丁寧に美しくつけてある。父の日記を盗み読みして見てもも、姉の事はたくさん書いてあって不満である。 初子の感じが

しっかりと記してあるが、私の場合は、表紙の「大不景気号」が物語っているように、さっぱり興味もなさそうにしか、書いてないのである。 それでも、工場が家の中に

あった頃、耳の病気(中耳炎)で、三、四歳の頃に、一人で十数丁離れた村で1軒きりの、水野さん(私達子供は医者なら水野さんだとおもっていた)へ、一年生の

頃まで通った。母が毎日、毎日、私の髪を結い上げてキラキラと光る飾りの付いた「花櫛」をつけた。さわるとポロポロと落ちるけれど、とても綺麗な泥絵の具の

飾りの付いたこの「花櫛」をさし、髪を丈長にしてキリキリと巻き付けた。何故、付けて呉れたたかは、いまもって解らないのである。


毎日、十五銭を持って耳の治療に通って、いた。小さい子供にとって、水野(医院)さんまでは、かなりの道のりであった。道の途中で、たんば坊手達に出会うこともあった。

私は、何時も石を、二つ、三つ持つか、棒を持って威勢を張って歩いた。

やあい、牛若丸が来た」と、囃やしたてる子供たちがあって、祖父の家付近で合う時は、「わしんとこの、親戚の家があるで、言いつけてやるわ」なぞと、

気張りながら、通院していた事があった。


 髪を結い上げるにも、地毛が縮れたり、少なかったり、短かったりでは、駄目であるだけに「牛若髷」の私を見て、母は満足であった事は確かであったろう。小さい貝の

片方や、繭の美しい布で覆い、背中の上の方につけたり、着物の紐の付け根にぶら下げてあったりして、くれた事もしっかりと覚えている。可愛い飾りになった。


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